「聖書の答え」

自分はなぜ生まれてきたのだろうか?なんの意味を持ち命が与えられたのだろうか?この命が終わり、そのあとはどこに行くのだろうか?神様という者は本当に存在するのだろうか?そして、もし存在するのならば神様は私たち人間のことをどう思っているのだろうか?


このような筆問はみないつか疑問に持つものです。世界には色々な意見や説明がありますが、聖書には疑問を持つ人々に希望を与える答えが含まれています。


創世記、第一章

1 初めに、神が天と地を創造した。
2
地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。
3
神は仰せられた。「光あれ。」すると光があった。
4
神は光を見て良しとされた。神は光とやみを区別された。
5
神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕があり、朝があった。第一日。


自然には設計があり、すべてを作り上げた設計者の証拠がたくさんあります。この世は偶然と表れたのではなく、立派な「神様」という設計者が立派な目的を持ち作り上げたのです。人間を初めて生み出したのも神様であり、人々に目的と価値を与えました。


26 神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」
27
神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。
28
神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」


ヨハネの黙示、第四章

11 「主よ。われらの神よ。あなたは、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方です。あなたは万物を創造し、あなたのみこころゆえに、万物は存在し、また創造されたのですから。」


人間は神様が一番愛する者として、永遠に神とともに生きるはずでした。しかし、人は罪を犯してしまい、罪を受け入れられない聖なる神様との親しい友情を切ってしまいました。


創世記、第三章

8 そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた、それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。
9
神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。「あなたは、どこにいるのか。」
10
彼は答えた。「私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました。」
11
すると、仰せになった。「あなたが裸であるのを、だれがあなたに教えたのか。あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか。」


その出来事から人間は罪を持ち生まれてくることになってしまいました。誰も可もよいことは教われなければなりませんが、罪を犯す知識は誰にも教われなくてもみな持っておられます。


ローマ人への手紙の代五節

12 そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして死が全人類に広がったのと同様に、それというのも全人類が罪を犯したからです。


代三節

10 それは、次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。ひとりもいない。

23 すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、
24
ただ、神の恵みにより、キリスト·イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。


キリスト·イエスは罪の呪いにかかってしまった人間界を救い、神様とのつながりを結びなおすために天から送られました。罪の呪いは罪を抱えて生きなくてはいけないことだけではなく、地獄で永遠に神様の創造から消されてしまう大変な罰です。


ローマ人への手紙、第六章

23 罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト·イエスにある永遠のいのちです。


ヨハネの黙示、第二十章

14 それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。


イエス様は神様が直接天から送った神子として、罪を知らない聖なる者です。罪の呪いを持たない神子として、呪いにかかっている人間を救うことができました。


ルカの福音書、第一章

31 ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。
32
その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。
33
彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。」
34
そこで、マリヤは御使いに言った。「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。」
35
御使いは答えて言った。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。


罪の罰を満たすためにイエス様は人間の代わりに犠牲になりました。十字架ですべての人間の罪を抱えて、その罰を受けてくださったのです。


ヨハネの福音書、第三相

16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
17
神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。


ローマ人への手紙、第五章

6 私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。
7
正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。
8
しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。
9
ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらです。
10
もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。
11
そればかりでなく、私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス·キリストによって、私たちは神を大いに喜んでいるのです。


罪の呪いが説かれるということは、神様から完全に許しをもらうことです。罪の呪いからくる罰が消され、天国で永遠に生きる権を与えられます。この許しは永遠の賜物として消される恐れもありません。過去に犯した罪、現在犯している罪、そしてこれから犯す罪、すべての罪からの嫌味と在野区間を消す聖なる許しです。


ローマ人への手紙、第十章

9 なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。
10
人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。
11
聖書はこう言っています。「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」
12
ユダヤ人とギリシヤ人との区別はありません。同じ主が、すべての人の主であり、主を呼び求めるすべての人に対して恵み深くあられるからです。
13
「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」のです。


神様が人間に自由に与えた賜物として、受け取ることも一人一人の自由です。受け取るために修行も働きも必要ありません。すべてイエス様が十字架で払いとうしました。謙虚にイエス様を唯一の救い主として完全に信用し、謙虚に罪からの許しと救いを求めれば神様から聖なる許しと天国の約束をもらえることができるのです。


ヨハネの手紙第三、第五章

9 もし、私たちが人間のあかしを受け入れるなら、神のあかしはそれにまさるものです。御子についてあかしされたことが神のあかしだからです。
10
神の御子を信じる者は、このあかしを自分の心の中に持っています。神を信じない者は、神を偽り者とするのです。神が御子についてあかしされたことを信じないからです。
11
そのあかしとは、神が私たちに永遠のいのちを与えられたということ、そしてこのいのちが御子のうちにあるということです。
12
御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。
13
私が神の御子の名を信じているあなたがたに対してこれらのことを書いたのは、あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせるためです。


神様はすべての人々にこの賜物を受け取ってくださることを望んでおります。神様は皆のものを愛しています。イエス様が人々のために犠牲になられた理由は世界を罪の呪いから救うためです。今そのイエス様を信用して、神様の救いを受けてみたらどうでしょうか。心で素直に信じて、自分の素直な言葉で謙虚に罪からの許しと救いを神様に祈るだけです。


もし疑問に持つことがありましたら連絡してください。この救いを受けた人からも連絡を願いたいと思います。